• キララバスナビ
  • 九州J-Park
  • ヤフーニュースでレノファ戦
  • 北九州市いのちとこころの情報サイト
  • twitter
  • twitter

History

基本的なところを振り返ってみると・・・

ディベートとの出会い

1984年(昭和59年)3月、北九州市小倉生まれ。
(※幼少期は「餓鬼」であり人として特に振り返るものはない)
1996年(12歳)。北九州市立中島小学校を経て、北九州市立白銀中学校に入学。世間から見れば荒れているほうに入る中学校だった。"荒れ"になびくことはなかったが、今になって思い返せば、いじられっ子ではなく、いじめっ子だった。「もっと周りを見られる人に」。そう言ってくれた2年生までの担任の言葉は30歳を超えてなお響いている。
この中学校での人生最初のいい出会いがあった。それは「ディベート」。今でこそ教室ディベートの経験者は多くなってきていると思うが、当時はまだ珍しい存在。とくに公立中学校での実践はほとんどなく、落ちこぼれかけていた私と、私とは似てもにつかない優秀な4人がピックアップされて放課後の修行に励んだ。
1998年(14歳)。特訓の結果、佐賀県佐賀市で開かれた教室ディベート選手権九州大会(4人制)で予選を突破し、決勝トーナメント進出。第2反駁というアンカーポストを担った私の活躍がいくばくかあり、決勝では常連校の佐賀大附設を破って優勝。全国大会出場を果たした。ちなみに市町村立中学校の九州大会優勝は当時初の快挙。同年、中学生の校内・校外活動を顕彰する北九州市久保田賞も受賞した。
とはいうものの、周りを見られぬまま落ちこぼれかけていた状況に大した変化はなく高校受験は落ち続ける一方であった。

ペンギンとの出会い

1999年(15歳)。なんとか当時は男子高だった私立常磐高校に拾ってもらえる。「特進」で受けたのに成績ふるわず、合格通知は「準特進」。拾ってもらった感がある男子高への進学だった。
とはいうものの実は中学3年の夏に学校訪問をしていて、その利便性の高さやおしゃれな校舎、そして、プールがないこと(笑)に魅力を感じていたのであった。(私の身長では高校のプールなどおぼれるためにある。)
当時、どれだけ落ちこぼれだったかは高校最初の数学のテストが如実に示していて、それをはっきりと覚えている。数A=14点、数I=17点。頭悪い。模試の偏差値も30点台だったと思う。その後、2年をかけて偏差値が( 偏 差 値 にもかかわらず)倍になるのだから常磐高校の教育は恐るべしだ(予備校にも行っていない)。
2000年(16歳)。高校2年のとき、ニュージーランドにホームステイする。といっても華やかな都市部ではなく、南島の中心都市・クライストチャーチからバスで7〜8時間ほどかかる田舎町「Owaka」(オワカ、と読む)。人口400人弱で、もちろん羊のほうが多い。町は島の南端に近く、ペンギンの保護区もすぐそば。とくにイエローアイペンギンは群れを作らない性格の珍しい奴だった。
3年次に第2回全国ユースフォーラムに参加。「共学/別学」(分科会)をテーマに全国から集まった高校生と意見を交わした。良い思い出である。ちなみに生徒会の副会長も務めたのだが、別にこれといって思い出はない。笑
右の写真上から順に:常磐高校校舎前、第2回全国ユースフォーラムの分科会

小川先生との出会い

2001年(17歳)から2002年までは変化の連続だった。
高校3年、17歳。初夏の暑い日、母が44歳の若さで命を絶ち、朝のいつもの口喧嘩を謝れぬまま人生の無常を知る。以後、家に居たくなかった私は、朝6時38分のモノレール、帰りは最後まで学校に残っていた。いちばん学校にいた。にもかかわらず成績は下降線。ネガティブなマイルストーンを刻む年になった。
センター試験も目標には遠く、生徒会顧問で国語科の恩師Aは「もう冒険はするな」と助言。合格安全圏の大学から最終受験校を絞り込む際に、教頭で社会科の恩師Bは「山口は維新の地。お前には合っとる」と。それがために山口県進出。結果的には良かった。
2002年(18歳)。その後に大きく影響することになったのが国際関係論の小川秀樹教授との出会い。JICAやNGOでの国際経験豊かな教授の指導を受け、山口という地にありながら極めて貴重な経験をした。ここで専門的なものや抽象的なものを例示するのは避けるが、ベトナム外務省がぺーぺーな山口の学生を招き入れ、同国アジア局長が「日越関係をよろしく」と言ってくれたのはびっくりしたし、(当時の)ベトナムの置かれている環境を慮った。そういうことも含めて、この4年間で海外を見る目、海外から日本を見る視点を持つことができたことは財産だと思う。
右の写真NGO「ハート・オブ・ゴールド」のカンボジア現地事務所にて

礎を築いた宮野時代

大学のある山口市宮野地域に「上田あり」と言わせた(?)のが、地域・大学密着型情報サイト&ミニコミ誌「ST.」の発行。
もちろん学生時分に「フリーペーパーを作りました」という人はたくさんいるので何の自慢でもないのだが、その活動の一環で開設した公共交通の情報を集めたウェブサイトが好評だった...。今なお「キララバスナビ」というサービス名でウェブサイトが続き、主要コンテンツの「路線図」は山口市役所にも提供するほど。2002年末に始めたものが10年以上も続いていると考えれば、私の活動が一過性ものではなかったことが分かっていただけるような気がする。
ちなみに当初のコンセプトは「不便にみえるものを少しでも便利に」。特に路線バスの案内に注力し、活動初期でもある2003年にはすでに独自の色分けや系統番号を付して路線図や時刻表を制作。山口市が本格的に系統番号を導入したのは2013年になったが、それに先駆けた活動は多方面に大きな影響を与えた(と思う)。
ミニコミ誌「ST.」としての活動では大学近隣のハザードマップをメンバーとともに制作。路線図作りなどとあわせてタウン誌「タウン情報やまぐち」に紹介され、人生のピークを迎える
ところで。2003年(19歳)の誕生日に学友からあざらしのマスコット「しろたん」の抱きまくらを貰う。これがきっかけとなって、以降、あらゆる関係者が「上田にはしろたんを贈っておけばいいや」と言うようになり、現在に至る。(お陰様でしろたんグッズが資料館級の増え方をしており置き場には多少困っている)
右の写真上から順に:タウン情報やまぐちの誌面、「しろたん」の抱きまくら

「書く」が生業となる

2006年(22歳)。ミニコミ誌を作っていたことが敏腕編集長の目に留まった。地域情報紙のN氏に招かれる格好で大学在学中から記者として活動開始。(ホンモノの)フリーペーパーの創刊に立ち会い、グランドデザインとウェブを中心に携わることになった。
2007年(23歳)から2年間は山口国体ボランティアセンターのスタッフとして活動。このときに私を招いてくれたのも、やっぱりミニコミ誌を作っていたことがきっかけで出会った平田センター長だった。恩人の一人である。また男女共同参画に関する啓発活動や情報発信をする(財)やまぐち女性財団の企画運営委員を務め、2008年度は部会長を担当した。
右の写真地域情報紙で担当した記事の一つ

サッカーとの出会い

山口国体の仕事にはスポーツ好きの県職員が集まっていた。それが直接的なきっかけとなり、地域スポーツに足繁く通うようになる。とりわけニューウェーブ北九州とレノファ山口FCであったが、最初の遭遇はがらんとした本城陸上競技場であり、高川学園高校の部室上から眺める大敗を喫した試合であった。
2009年(25歳)。北九州に再上陸し、「共同工房ナズー」の屋号で独立する。
同年秋、ニューウェーブ北九州が敵地でJ2昇格を決める。いわゆる浜川の歓喜。残念ながら当地には出向けなかったものの、サポーターが次々と更新するmixiコミュニティや携帯電話を握りしめてその瞬間を待った。その晩、夜の北九州空港で多くの関係者とともに選手を出迎えた。
それから何日もたたないうちに、とある編集プロダクションを2つほど経由して「J's GOAL」の編集部から電話があり、物書きとしての活動領域はサッカーへと広がっていくのであった。
2011年(27歳)。同年から2012年のシーズンには元日本代表の三浦泰年監督がギラヴァンツ北九州を指揮。サッカーに熱く、言葉でも身振り手振りでもチームを鼓舞する一種独特の監督だったが、とりわけ三浦監督が繰り返した「プロフェッショナルであれ。プロのエンターテイナーであれ」という言葉は心の中に残り続けている。
それは選手に言っていた言葉であったし現に選手はそれに応えていたのだが、記者はどういう気持ちでプロ選手に向き合い、(書くことで生計を立てる者をもプロと呼ぶなら)プロの書き手はどういう言葉を選んで記事にするのか――と、自分に問いかけるものにもなった。
右の写真上から順に:レノファ山口vs佐川急便中国(2009年,高川学園)、2011年のギラヴァンツ北九州の島原キャンプ

新しい時代の訪れ

2014年(30歳)。サッカーの仕事の大きな転機が訪れた。2013年の1年間を除いてずっと携わってきた「J's GOAL」の閉鎖がライターに伝えられ、「週刊サッカーダイジェスト」も発行スタイルを月2回に大幅に減らすことになった。地方サッカーの情報発信力の低下や地方クラブに付いているライターの仕事を確保するべく一念発起。鳥栖担当のS記者をはじめとするライター陣、北九州市立大のM准教授、その他各種役所などの協力を仰ぎ、Jリーグとも交渉を重ね、2015年に九州6クラブのゲーム情報を発信する統合サイト「九州J-Park」を開設するに至った。
また、国体ボランティアセンター時代から縁のあったレノファ山口FCが2014年に中国リーグからJFLにステージを移行。同年末にはJ3昇格の切符を手にした。私を育ててくれた山口に恩返しをしたいとの思いは本当に強く、東京の編集部に『レノファの原稿を書ける』と持ちかけたところ、編集部にも快諾いただき昇格のドキュメントを「サッカーダイジェスト」に掲載することができた。2013年までは年間数試合程度の観戦しか叶わなかったが、JFL、J3ではなるべく多くの時間を割いて試合観戦や取材を敢行。ギラヴァンツ北九州と並行して追いかけている。
(まだまだ続く)
(2015年6月 加筆)